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とももも桃も桃のうち


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by tomomo_tomopan
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人生の熱狂と時代の熱狂

[本日の結論]要はタイミング

ある歴史学者が、最近の人々が持つ潜在的な歴史観は「個人史的」であり、
非常に危険であると述べていた。
彼の意見を僕なりに少し補足をすると、
「個人史的」とは、歴史の流れが「個人」の観点から語られ、
一人の人間の行動や思考が歴史に影響を与える、という事を指しており、
また、「危険」であるとは、歴史が矮小化され、
その結果、事象の社会的原因や背景を考察せず同じ事を繰り返すのだという事だろう。
現在テレビで放映される歴史物が個人の感情やそれに応じた行動選択を中心に描くので、
歴史とは個人の力によって改変されると考えてしまいがちであるというのがその根拠である。

歴史学・社会学を多少なりとも研究していた者は、基本的にこの個人史的歴史観を取らない。
歴史とは構造的であり、繰り返されるものだと考えるのである(=構造的歴史観)。
また、個人が歴史的役割を果たすならば、
たまたま、時代が求める条件に合致した人物が選択されたと考えるのである。
つまり、ある種の条件が複合的に重なれば、必ず歴史的事象は起こり、
たまたま社会の流れに合致する人物が選択され、社会を改変するという思想を持つのである。
わかりやすく言えば、
織田信長がいなかったとしても、いずれは別の誰かによって日本は統一されただろうし、
原爆が落とされなかったとしても、日本は降伏の道を選んでいたのだと考えるのである。
そのように考える理由は、単純に数々の歴史的場面は
過去にも、様々な場所でも繰り返されていることを学者は知っているからであろう。
また、学問とは偶然性を排し、共通性を記述する側面があるので、
結果的にそうならざるを得ないという理由もある。

いずれにせよ、僕自身もこの学者の意見には概ね賛成する。
個人史的歴史観が本当に蔓延しているかどうかは調査しなければわからないけれど、
少なくとも、僕自身も歴史は構造的であると考えているし、
個人史的歴史観が危険だろうなという認識は持っている。

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とはいえ。
歴史が偶然によって支配されず、個人が流れの中で役割を果たすとしても、
個人の観点から見れば、社会の流れがどうであるかはあまり関係ないだろう。

桶狭間決戦前夜の織田信長にとっては、目の間の決戦が人生最大の勝負だっただろうし、
原爆を作ったアインシュタインはそのことで一生後悔に悩まされたのだ。

ここに、構造的歴史観と個人史的歴史観の乖離が発生する余地が生まれる。
個人が歴史に巻き込まれたとき、各個人はドラマティックに変遷を遂げる。
ドラマティックであるということは、それはドラマツルギーに利用されるということである。


「人生の熱狂と時代の熱狂が偶然にも一致した幸福な、そして不幸な人々」(by 鴻上尚史)


これは第三舞台のある劇の中で使われた台詞だが(何の劇かは忘れた・・・)、
これらの言葉に、この日記で伝えたいことのすべてが凝縮されている気がするのだ。
構造的歴史観とは、ある種冷静さを人に与える価値観である。
個人が特別であることを許さず、歴史の流れは誰にも止めることはできないと考えさせる。
一方で、個人的歴史観は「熱狂」を与える価値観である。
その個人的体験は誰に成り代わることのできない唯一無二のものであり、
功を成するのは個人の力であると考えることで、人に優越感と特別感を与える。

「人生の熱狂」と「時代の熱狂」。「幸福であり、不幸である」。
この二つの対比は、構造的歴史観と個人史的歴史観の対立を見事に表現していると思う。
僕が思うポイントは「不幸」であるという記述である。
ここでの「不幸」は「幸福があれば、不幸もある」という文脈で使われているのではなく、
「幸福」と「不幸」が表裏一体の関係にあるアンビバレンツを表していると僕は考える。
だからこそ、僕はこの言葉を高校生の時に知ったにもかかわらず、
今でも妙に心に残っているのだろう。

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この構造的歴史観と個人史的歴史観の対立は一個人の歴史にも当てはまると僕は考える。

ここから以降の話は僕の人生観としか言いようがないのだが、
僕は僕自身の人生において、いくらでも自分の代わりはいるのだと考えている。
僕のたいしたことない人生の中でも、それなりに成功体験・失敗体験があるのだが、
僕はそれらの成功体験が、自分の力で手に入れたとはあまり考えていない。
たまたま、その場で求められた人物像(=役割)が僕だっただけであると考えているのだ。
一方で失敗体験も、自分の能力が足りなかったのだと悲観することもあまりない。
最低限の努力や準備は必要だけれど、
結局どんなに努力をしていても、たまたま求められる資質が異なっていて、
不幸な結果になって苦しんだ人を大量に知っているからである。

以上が、構造的個人歴史観。
こう考えることで、僕は僕の人生に対して冷静でいられるのだと思う。

一方で、僕は個人的個人史観を持っているのだと思う。
詳細を書くと、単なるナルシストになってしまう恐れがあるので書かないけれど、
どこかで自分は(様々な場面で)特別なんだと思っていなきゃやっていられないのだ。

要するに、バランス感覚。という事になるのでしょう。

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最後に結論を付け加えると、
僕は個人のモチベーションや感情は個人的個人歴史観でよいと思っている。
だって、そう考えた方が生きる事に対して前向きでいられるから。

だから、僕は上記二つの歴史観の対立を次のような形で昇華している。

僕がいてもいなくても会社や共同体、僕と関わった人や歴史はたいして変わらない。
しかし、何らかの役割が与えられたならば、僕はその役割と真剣に向き合いたい。
そして、楽しみたい。

社会や誰かが僕を必要とするならば、喜んでこの身を提供したいのです。
# by tomomo_tomopan | 2008-08-16 10:03

感謝というモチベーション

会社員という職業を得て、はや三ヶ月が経った。
新卒として入っているるので、当たり前だけど周りは年下ばかりである。
(ちなみに同期は200人以上。もっとも半分以上は院卒なんだけど)
すると、不思議なことに尊敬とは言わないまでも、僕を「すごい」と言ってくれる人がいる。
身に余る光栄ではあるのだけど、素直にうれしく思う。

そんな中、同じように多少遠回りをして新社会人になった同期がいる。
彼は、ある時僕にこの様に言った。
(彼もまた周りの同期から尊敬される人間である)

「周りからすごいと言われることもあるけどそんなことはないし、むしろダメ人間だよね。
 彼らが僕らくらいの年になったら僕らなんかより全然すごい人間になっている。
 要するに、単純に年を取っているだけだ。」

全く持ってその通りだと思う。
彼らに僕らが遠回りした6年間を与えたら、尊敬できる人間になっているだろう。

でも、僕はこの考え方を完全に受け入れることはできなかった。
というのは、6年後の彼・彼女たちが僕よりも立派になっている事には同意できるけれど、
僕は自分と同じ年の人間と比べて人間的に劣っているとは思わないからだ。

 僕は成長してきた。
 自分の生きてきた道に後悔はしていない。

そして、何より僕には次の様な強い信念がある。

 僕はこの人生の中で多くの人に出会い、多くの人に支えられて生きてきた。
 ときには返せないほどの恩義を受けたし、ときには多大な迷惑もかけた。
 もし、自分の人生を否定したならば、
 僕は僕を支えてくれた人達の恩義を否定することになる。
 それだけは、僕にはできない。
 もう恩義を返せない人もいる。
 そんな人たちも含めて、彼・彼女たちに対する恩返しは僕が僕らしく生きることなのだ。

残念なことではあるけれど、人は年上という理由で単純に尊敬するわけではない。
上であっても、下であっても年齢に関係なく尊敬できる人は尊敬できるのだ。
同期たちの敬意の気持ちには、単純に年上に対する敬意という観点があるだろうが、
それを差分しても、何か相手に与えられるものがあるからそういってくれているのだと、
僕は素直に受け入れている。
他人よりも自分が優れているとか、自分は有能な人間だと言いたいわけではない。
ただ、自分が自分らしく生きているということの結果の証明として、
尊敬という評価を、自分を支えてくれた人たちに渡したいだけなのだ。

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話は少し変わるが、先日ある22歳の女性が次の様なことを言っていた。

「社会人になって、作業に答えがないことをとても不安に思う。
 私は与えられたことに対しては、適切な答えを出すことができる。
 そうやって答えを出すことで他人に感謝されることで喜びを覚えてきた。
 でも、社会人は答えがないし、終わりがないからどうすればいいかわからない。」

久しぶりにこんな発言を聞いたなぁと思った。
というのは、実はこのような悩みというのは、新社会人なる年齢の人たちによくあることで、
一般的には、有名大学出身の女性におおく、
学生時代真面目に授業を受け、点数をしっかり取ってきたタイプが陥りやすい罠なのだ。

僕はそういうタイプの子が精神失調に悩まされ苦労している事を知っている。
うまく切り替えないと、重い鬱病にかかってしまうこともあるのだ。

このような発言は、大学院に行きたいという何割の女性にいたなぁと思う。
僕が大学生だった数年前は不景気のまっただ中で、
かなり良い大学に入っていても、なかなかいい会社への就職なんてできなかった。

僕自身の感想になってしまうので非常に申し訳ないのだけど、
いわゆる一流大学と呼ばれる大学の女子大生は真面目に授業を受けるタイプがおおい。
(一方で男子学生はわりと勉強しないで入ってしまう天才肌がおおい)
そういうタイプの女子大生は、結果(=点数)を親や教師から求められ、
その期待に応えることで、ある種の生き甲斐を感じている人がおおかった。

○○が喜ぶから私は頑張った。

こういう奉仕の精神と自分の行動が結びついてしまう女性はそれなりにいるのだと思う。

時代が時代なら、その頑張った結果が一流企業への就職という形で結びつくが、
数年前はそのような時代ではなかった。
頑張っても、頑張っても評価されない、結果に出ない。そんな結果になる。

そんなとき、教授から自分の書いたレポートを褒められる。
「良かったら、大学院に行かないか」と教授から甘い言葉をささやかれる。
すると、その子はそこに自分の意義を見いだして、大学院に進んでしまうのだ。

ところが、大学院はそんな場所ではない(少なくとも文系おいては)。
将来への展望は真っ暗で、研究テーマも自分で見つけ、自分で答えを出さなきゃならない。
ある意味、社会に入るよりも、信念と覚悟が問われる世界なのだ。

従って、そのような女性は上記のような悩みを抱え込んでしまう。
大学院時代にそのようなタイプをよく見たという理由はこのような背景があるからだ。

要するに、このような奉仕の精神が強い女性の大学院進学は、
「先延ばし」「引き延ばし」にすぎないのだ。
なぜなら、大学院に進学したって、企業に就職したって、
学生時代と違って、どこにも答えなんかないから、自分で探さなきゃならないからだ。

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話を一気に戻そう。
上記の社会人に対する不安を話した彼女の発言を受けて、
僕はどのような答えが返せるのかをあの後一日考えてみた。

その結果、「感謝というモチベーション」なのではないかと思った。

誰かの期待に応えたいという気持ちは素晴らしいものだと思う。
また、誰かに奉仕をしようという気持ちも素敵ものだと思う。

ただ、感じて欲しいのは、
相手の期待に対する応え方は現実的な「数値」ではないということだと思う。
打算的な教授や会社の上司は「数値」を求め、
相手をその気にさせて仕事をさせて自分の手柄にしてしまうが、
相手が人格者なら、応えて欲しいのは、その人らしく生きてもらうことだと思う。

そのような形で気持ちを切り替えられればいいんじゃないかな、と思う。
もっとも、そのように他人への感謝の気持ちをモチベーションにし、
「自分らしく生きよう」と思えるまでには相当の時間がかかるものではあるのだけど。
# by tomomo_tomopan | 2008-07-27 21:58

近況報告

ご無沙汰しております。皆様お元気でしょうか。

近況報告を全くしていないように思いますので、簡単に報告をさせていただきたいと思います。

[2007年12月から2007年4月]
・大学の博士課程を満期修了で退学する事を決意。
・研究職なんてこのご時世なかなかないので、一般企業に就職活動をする。
・4月にある企業から就職内定をいただき、就活をやめる。

[2008年5月から2008年12月]
・気持ちの立て直しを図りながら、残った仕事と研究をする。

[2008年1月から2008年3月]
・ひたすらバイトをしてお金をため、フランス・イギリスに逃亡。

[2008年4月から2008年7月]
・入社。若い人に囲まれながら、3ヶ月ほど研修を受ける。

[2008年7月から現在]
・配属が決定する。幸運にも希望していた研究所勤務になり、研究員となる。

とりあえず、こんなとこ。
深い内省についてはまた後ほど。
# by tomomo_tomopan | 2008-07-26 10:46

弱い男心がわかる名シーン

ジョゼと虎と魚たち。

名作だと思う。
でも、僕がこの映画のタイトルを聞いて思い出すのは、
僕の親友の言葉と彼が話したこの映画の最後のシーンである。

この映画は足の不自由な女の子に恋をするのだけど、
結局様々なことが重荷になって、彼女の元から去り別の女の人に行くという話だ。
その映画の最後のシーンは、主人公が新たな恋人の話を上の空で聞いているのだけど、
最後に耐えきれなくなって、道端でうずくまって泣くという場面である。

この場面を僕の親友はとても理解できる、と言っていた。
色々な複雑な感情がそこには顕れていて、
足の不自由な彼女を愛せず、彼女から逃げた主人公の弱さが描かれているのだ、と言った。

この感想を聞いた後に僕はこの映画を見るのだけど、
その最後のシーンはなぜか僕の親友の彼の姿と重なった見えた。
それ自体が名シーンであるのだけれど、
非常に彼らしい感情の発露が、その主人公を通して間接的に表現されていたからだ。

ジョゼと虎と魚たち。
僕はこの言葉を聞くと彼を思い出し、
僕は彼がとても好きな事、信頼している事、とても魅力的である事を改めて思い出す。

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マタアイマショウ。

SEAMOの曲である。
僕は彼の事をよく知らなかったのだけれど、たまたま彼のコンサートに行き、
しかも、たまたま僕の親友(上記とは別の人)が同じコンサートを見ていて、
その後に一緒に飲んだ時に彼がこう表現した。

男の弱い心をすごく上手に表現している。すっげー、もてないんだなって思う。

♪この手を離せば もう逢えないよ 君と
 笑顔で別れたいから言う マタアイマショウ マタアイマショウ

♪これからはもう それも出来ない
 お互い違う人好きになって お互い違う人生歩んで
 僕はとっても幸せでした(私もとっても幸せでした)
 いつか心からいなくなるかも だからしたいよ 素晴らしい過去に
 この恋を未来に誇れます 涙まみれ笑顔でめくる明日
 そしてまずこの場で別れ わかってる きっと逢う事ないって…
 だから言います マタアイマショウ 僕なりのサヨナラの言葉よ

うん。確かに男心をよくわかっている。
僕の勝手なイメージでは、女の人はわりとあっさり別れるのではないかと思っている。
だから、ここで描かれている世界は、非常に男の内面的でナイーブな世界だと思う。
いたるところに、未練が残っているのだけど、
それを断ち切ってなんとか綺麗な形で別れようとしている必死さが伝わってくるのだ。

だいたい「マタアイマショウ」と言いながら"逢う事ない"って決めつけが非常に弱々しい。
「幸せでした」とか言ってしまうナルシストぶりが痛々しい。

でも、気持ちはわかる。僕もこんなものだから。そして、きっと彼もこんなものなんだろう。

だから、僕はこの曲を聴くと彼を思い出す。
彼の強そうに見えて、実は繊細な部分がある事を如実に表現されているからだと思う。
この曲を聴くと、彼の愛しき人間性を感じさせ、
これからも友達として一緒にいたいなと思えるのだ。

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オペラ座の怪人。

実はこの話がしたかった。
僕が大好きなミュージカル。この話だけで3時間は語ることができる。

簡単なあらすじ等は前日の日記を読んで欲しいと思うし、
詳しい内容は実際映画などで見て欲しいと思うので割愛させてもらうので、
見ていない人にはなんだかわからない話になってしまうけれど、
ここで「オペラ座の怪人」を語る上で簡単な疑問とその可能な答えを考えてみたいと思う。


Q. もしファントムが美形の男だったら、クリスティーヌと結ばれていたか。


一つ目の可能な答えのはYES。
彼の心が歪んでいたのは、その醜い容貌のせいであったので、
顔が良ければ性格も歪まず、クリスティーヌも問題なく彼を受け入れただろうという答え。

もう一つの可能な答えはNO。
ファントムが音楽の才能を持っていたのは、
その不遇な境遇と自分(と容姿)を呪い続ける魂の叫びがあったから。
従って、美形であれば音楽の才能はそもそも持つことが考えられなかったわけで、
彼の音楽の才能にクリスティーヌが惚れることもなく、
音楽に執着しないファントムも彼女の歌声に惚れることはなかったから、という答えだ。

僕としては後者の意見を採用したいと思う。

音楽の才能というのは確かに天賦のものかもしれないけれど、
それに対する執着心や表現したいという欲求は幸せな生活からは生まれてこないと思う。
ファントムには音楽以外に頼るべきものがなかったから、
それ故に音楽を心の底から愛し、自分の音楽を表現できる彼女に惚れたのだろう。
従って、僕は彼の醜貌と音楽は切っても切り離すことができないものであり、
ファントムにとって音楽と醜貌は表裏一体の関係にあるのだと思っているのだ。


オペラ座の怪人の最後のシーンに、ファントムが鏡を叩き割るシーンがある。


このシーンはファントムがクリスティーヌにラウルとどちらを選ぶかを迫り、
その後、クリスティーヌがその答えとしてファントムにキスをするシーンの後にある。
このキスシーンは様々な解釈があるので、何とも言えないが、
僕は彼女のキスは肉欲的な愛とは違う、慈悲的な愛からキスをしたのだと考えている。
彼女は、ファントムに"You are not alone."と言う。
この意味は、

私は確かにあなたに惹かれていた。
そして、それは醜い醜貌とは全く関係ない。
あなたは確かに私に愛されていたし、あなたはもう愛を知らない子供じゃない。

そんな様なモノだと僕はクリスティーヌの行動の意味を解釈している。
ところが、ファントムにはそれがわからない(または混乱している)。
愛を示しておきながら、別の男と共に去っていく彼女の姿が。
だから、彼はやはり自分の醜貌を憎み、その感情の発露として鏡を叩き割るのだと思う。

一つの解釈として、彼は愛されてこなかったら愛の形を知らないのだと言うことができる。
だから、"理解され受けいられる事=肉欲的な愛"という単純な図式が成立するのだろう。
しかし、愛には一緒になりたいという肉欲的なモノ以外にも様々な形があるのだ。
それがあの時のファントムにはわからなかった、またはその新たな形に触れたから、
鏡をわるという行為にでたのではないかと思う。


この姿がどうも自分と重ね合わせてしまう。


決して僕は親からの愛を知らずに育ったというわけではなかったけれど、
若いときは理解される事と肉欲的な愛は密接にリンクしていた気がするのだ。
だから、女の人との別れ際に、
例えば、「あなたの事は好きだけれどもう一緒に居られない」的な事を言われた時に、
相手の行動の意味を理解できずに、自分の感情が暴走していた苦い記憶を思い出すのだ。

僕が思うに、女性はいつでも自分より精神年齢が高いのだと思う。
そして、男の直線的な愛の形だけではなく、
丸みを帯びた温かで優しい母性という愛を持っているのだと思うのだ。

だから、僕はこの鏡を割るシーンを見ると、どうも胸が苦しくなるのだ。

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最後にもう一つ。
やはり同じオペラ座の怪人から。

「オペラ座の怪人」の一番最新の映画版は
基本的にミュージカル版と同じ内容なのだけど、異なる部分が多少ある。
それは冒頭のラウルが猿のオルゴールを落札するシーンと、
最後にラウルがクリスティーヌの墓にその猿のオルゴールを捧げるシーンである。
(記憶違いだったらごめんなさい)
後者は映画の完全なオリジナルであり、
前者はミュージカルでもあるのだが、映画版にはないがミュージカルでは
ラウルがオルゴールを手渡された時にそれを忌々しく振り払うシーンがあるのだ。

僕は絶対にミュージカルの解釈(演出)の方がしっくりくると思う。

映画版だと、ラウルはファントムの永続的な愛を理解し、
クリスティーヌのファントムへの愛(音楽への愛)の未練を受け入れている様に見える。
でもミュージカルの解釈では、
オルゴールを落札するあたりに、クリスティーヌへの配慮が見受けられるのだが、
それを素直に受け入れることのできないやるせない気持ちが表現されているのである。

男は映画版みたく潔くもかっこよくもない。
見栄っ張りだからかっこつけようとするのだけど、結局格好悪いのが男なのだ。
映画版みたく、愛する人が持つ別の人への愛や他人の一途な愛を受け入れられない。
だから、ミュージカル版の解釈はすごく正しいし、自分と重なるわけである。


思えば、この上四つのシーン全て、
格好つけようとするけれど、結局格好悪いうじうじした部分が表現されているものばかりだ。
その辺の泥臭さを女性は愛してくれればいいと思う。
# by tomomo_tomopan | 2008-03-31 13:27

才能に恋をしたファントム

僕は"才能"のある人が好きだ。
ただ、僕の言う"才能"というのは神様から特別に与えられた誰もが認める能力ではなく、
この広い世界を独自の視点で感じ、切り取れる力だと思っている。
それは音楽や美術だけではない。
この世界で感じたことをすくっと言葉にでき、表現できる能力を愛しているのだ。

「なるほど、あなたはこうやって世界を見ているのか」

そう感じたら僕はもうその人に恋をしている。
その人の隣で、その人が感じていることを一緒に感じたく思い、
僕を新たな世界へ連れて行って欲しいと願ってしまうのだ。


・・・。なんて事を人に話したら、恋をしなくてもいいじゃないか、と言われた。
どうやら僕は親和欲求(別の他人と一つになりたいという欲求)が強すぎる様で、
その人は確かに誰かが書いた絵や作り出した音楽に妙に惹かれたり、
はっとする言葉に出会うとその人の文章をずっと読みたくなるかもしれなけれど、
一緒に感じたいと思わず、そこで完結すればいいのだと話していた。

要するに、好きな作家が書いた小説は読むけれど、
実際にそれを書いている作家に恋をしたりはしない、ということであり、
作品と人格は別で考えるべきなのだ、という話であるのだ。

なるほど。ごもっともである。


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昨日、ロンドンから帰国した。
ロンドンには3日しかいなかったのだけど、うち二日間ウエストエンドでミュージカルを見た。
そのうちの一つが僕が大好きな作品「オペラ座の怪人」である。

オペラ座の怪人を見た・読んだ事がある人がどれくらいいるかわからないけれど、
簡単に内容を話すと、
オペラ座の下の地下水路に音楽の才能に溢れた醜い容姿を持つ男が住んでいて、
ある時オペラ座で端役を演じていた女性に恋をするという話である。
ミュージカル版と原作ではかなり話が異なるのだけど、ミュージカル版では、
基本的にこの二人と、女性の観客であった貴族の美男との三角関係を中心に描いている。

醜くく、それ故に孤独さを併せ持つ音楽の才能を持つ男(=ファントム)。
金もあって、顔もよく、人一倍彼女を愛している貴族の男(=ラウル)。
最初は女性(=クリスティーヌ)はラウルと惹かれあっていくのだけど、
物語が進むにつれ彼の音楽の才能にどんどん惹かれていってしまうわけである。
ただ、結果を言えばクリスティーヌはラウルを選ぶ。
見た人によって色々な解釈があるから、彼女の決断の意味も様々な形で取れるのだけど、
どんなに好意的な解釈をしても、彼女がラウルを選らんだ事実はは間違いないだろう。

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僕は「オペラ座の怪人」を見ると、毎回ファントムに肩入れしたくなってしまうのだけど、
それはあそこまで凶暴的(結局ストーカー&殺人鬼ですから)ではないにしても、
似たような部分を持っていると感じるせいかもしれない。

ファントムにとって、才能とその中の人格は一つのものだと考えているのかなと思う。
つまり、彼が愛したのは音楽の才能(美しい歌声)を持ったクリスティーヌであり、
優しく接し、理解を示していたマダム・ジリーには恋心を抱かないのである。

こういう状況を心理学的にはハロー効果と説明するのかもしれない。
ハロー効果とは、ある対象を評価をする時、
顕著な特徴に引きずられて他の特徴についての評価が歪められる現象の事を指すのだが、
簡単に例を挙げれば、頭が良い人を人格者だと思ってあがめたり、
美しい顔を持つ人を人格的にも素晴らしいと思いこむ認知バイアスのことである。
同様にファントムもクリスティーヌの歌声に惹かれ、
そこからすべてに惹かれていったと考えるのは自然かもしれない。

でも、僕はファントムの恋心はハロー効果とは少し異なると思っている。

ファントムにとって才能(=歌声)だけがすべてだったのではないかと思う。
部分が全体であり、歌声こそ彼女であるのだ。
そして、愛するべき才能さえあればその人のすべてを愛することができる。
そういう感覚ではなかったのか、と思う。

だが、クリスティーヌは違う。
彼女もファントムの音楽の才能に惹かれていくのだが、
結果的にファントムではなくラウルを選んだのだから、
才能ではない別の要素がファントムを生涯の伴侶として選ぶことを拒んだ理由があると思う。
部分が全体ではないのだ。音楽の才能は音楽の才能なのである。

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と、考えていくと僕は紛れもなくファントムタイプであるといえるのかもしれない。
そして、世の中には別に全体で考える現実的なクリスティーヌタイプがいるのかもしれない。

男が部分から全体を愛せ(ある一部分に恋ができれば万事OK)、
女が部分から全体を愛せない(顔だけじゃダメなのよ。生活力が大事なのよね)という結論は、
男が理想主義的で、女性が現実主義的という一般的な見解と結びつけられるわけだが、
まぁ、僕はそんな一般論は一般論としておいておくタイプなので断言はしないけれど、
そういうものかもしれないなぁ、とは思ってしまうわけである。

でも、何か一つを愛せてそれで死ねたら本望じゃない?
芸術に命を捧げられたら人生ハッピーじゃない?

・・・そう思う僕はきっとダメ男なんでしょう。
# by tomomo_tomopan | 2008-03-29 13:27


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