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とももも桃も桃のうち


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by tomomo_tomopan
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ポテンシャル

僕はポテンシャル、潜在能力という言葉が嫌いだ。
昔はこの言葉をよく使っていたし、恐らく自分にはポテンシャルがあると信じていたと思う。
多分、自分の才能を過信していたのだろう。

でも、今は違う。

今は自分自身の能力の限界をよく心得ているし、
それ以外の部分で勝負しなければならないという気持ちになっている。

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仕事やある種の事(スポーツや特定分野の研究等)に発揮する力をパフォーマンスとすると、
それは次の様な公式で得られるのではないかと思う。

P=C×M×((A×E)+K+F)
*パフォーマンス(P), 体調(C), モチベーション(M), 応用力(A), 経験(E), 知識(K), 能力(F)

説明をすると、まず絶対的な力は経験と知識と能力の総合値で決定され、
その総合値はモチベーションと体調(コンディション)を係数として計算されるということだ。
また、経験に関しては、当該分野と過去の経験との近接性と、
その人が過去の経験を次に生かせるかどうかという応用力を係数として持つと考えている。
(ここでは近接性を大きな意味で応用力に含めている)

簡単に言えば、どんなに能力が高くても、モチベーションやコンディションが悪ければ、
全然良いパフォーマンスをすることができないし、
たとえ、能力が低くても経験と知識があれば、それを十分にカバーできるということだ。

ここで、もう少し能力について考えてみよう。
能力というのはとても抽象的な概念である。
集中力や記憶力、計算力など様々な能力の複合体だと思われるし、
しかも、それらが常に発揮されるとは限らず、特定分野に依存したものもあるだろう。
(たとえば、棋士は棋譜を憶えるのは得意だが、他の記憶力は普通だったりする)
しかしながら、それでもポテンシャルと呼べるものは存在するし、絶対的格差もある。
どんな分野にでも能力を発揮する天才もいるし、
運動神経の良い人はどんなスポーツをやらせてもある程度できたりするものなのだ。

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今までに最高のパフォーマンスを発揮したことがあったのかな、と考えると、
僕の人生の中でそんなことはほとんどなかったのではないかと思う。
僕の欠点は持続性がない、計画性がない、ポカがおおいということだと思う。
そして、そのおかげで何度も致命的なミスをしてきた。
それでもなんとかしてしまったのが、自分の人生だったと思う。
だからこそ、自分は「やればできるこだ」と過信していたのだと思う。

でも、そんな人生は長く続かないものだ。

それを今年一年間で嫌というほど味わった。
そして、取り返すことができないほど、自分は人生に負い目を感じている。

もう二度とあんな一年は過ごしたくない。

また、自分がこころの中でどこかに馬鹿にしていた人たちが成功していくことをたくさんみた。
もともとの絶対的能力がそんなに高くなかった人たちが、
努力を続けて、最終的に高い能力を手にした人たちをたくさん知った。
そして、もともと能力が高い人が、さらに努力をして高見に上る姿を僕は知っている。

今の自分はとても惨めだ。

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もうポテンシャルなんて言葉にしがみつきたくはない。
最高のパフォーマンスをするために、他の部分を完璧にしたい。

モチベーションやコンディションはいくらでも挙げられる。
知識は努力をすれば得ることができるし、
経験はおそれず、プライドを捨てて、持続してやりきれば必ず身に付く。

だから、来年の目標は「ノーミス」にしようと考えている。
細かいことにきをまわし、最高のパフォーマンスを発揮できるようにしていきたい。
# by tomomo_tomopan | 2007-12-30 23:47

新学期と擬似的な友情と互助システム

新しい仲間とはじめる新たな生活。
しかし、その最初の一週間ですべき事は、新鮮な空気を吸う事ではない。
自分と似たような価値観を持つ人を見つけ、同盟を組み、
できるだけ孤独を味わない生活を守る為に擬似的な友情を作り、
それが本物になる為に一緒にご飯を食べたり、
くだらない話をしたり、カラオケに行ったりして既成事実を作る事だ。

しかも、単純に似たよう人を見つけるという作業ではない。

そこには常に「力」を意識している。
どのグループが人気者集団なのか。
どの集団に居れば、自分を良く見せられるのか。
人はそうした権力意識には鼻が利くものなのだ。

もちろん、こうした集団作りに興味がない人もいる。
でも、そうした人たちはどの集団からもはじき飛ばされる。

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上の話が全ての人における真実なのかはわからない。
しかし、この認識を前提として、自分の境遇を描く作品は多数存在する。

綿矢りさの「インストール」しかり。
柳美里の「水辺のゆりかご」しかり。
すえのぶけいこの「ライフ」しかり。
中村航の「百瀬、こっちを向いて(『I LOVE YOU』に収録)」しかり。
市川拓司の「そのとき彼によろしく」しかり。


中村航の作品では次の様な強烈な言葉が出てくる。

人間レベル。それは、外見と精神の良し悪しを総合したものである。(中略)僕の場合はレベル2程度である。外見は凡庸で性格も暗い。(中略)中学時代の三年間、僕は常にクラスの底辺にいて、同じように底辺に存在するレベル5以下の友達と漫画やゲームの話ばかりてしていた。人間レベルの高い者たちは、僕の様に人間レベルの低い者を障害物として扱った。


市川拓司の作品の中の記述は、グループ間の序列に関して非常に具体的である。

・・・。全てがあるべき場所に落ち着いていく。初めのうちは古い絆にすがっていた彼らも、やがては自分に見合う新しい友人を見つけ、教室という小さな社会の中の位階制を形作っていく。
第一に勉強ができ、しかもそのことを鼻にかけたりせず、『あいつはいい奴だ』と不良連中からも一目置かれたりする男子生徒達。彼らは決まって勉強以外にも、バスケットがうまかったり、ギターで技巧的なリフを弾きこなすことができたりという人間的な魅力を備えている。
そして、何の臆面もなく、堂々と女子生徒とつき合ったりする。
(中略)このグループは誰に対しても分け隔てない態度で接してくれるけど、僕らはそれが決して対等な付き合いでないことを知っている。彼らは「上流階級」なのだから。
勉強だけが取り柄で、たとえ明日で世界が終わるのだと知っても、英単語や方程式を憶え込むことをやめようとはしない者たち。どこかで目的と手段をはき違えてしまったのだが、そのことに気づくまでに、彼らはずいぶんと多くのものを失うことになる(後略)。
また一方で、勉強は嫌いだけど身体を動かすことは得意だという運動部の連中がいる(勉強が得意な運動部員は「上流階級」になる)。(中略)だが、彼らもまたん何かを失っているのだ。しかし、多くの場合彼らは生涯そのことに気づかない(何かが頭に去来するのだけど、
それを掴むことはできない)それでも、この2つのグループは「その他」の集合よりは階層の上にいる。
「その他」は文字どおりその他で、舞台の背景に等しい。勉強もそこそこ、スポーツもまあまあ、とりたてて語るべき才能はない。
その下に、というかその外に、ちょっとした変わり者達がいる。独自の価値観で行動し、自分より他の人間には興味を持たない少数派。(後略)


描き方のパターンは様々であるが、
(例えば、「上位」グループに入らず、個性的に生きる人間の気持ちを描いたり、
 集団になじみたいが、なじめず孤立しながらも強くなっていく主人公を描く作品や、
 集団に帰属しながらも違和感を感じている主人公を描くなど)
そうした学級内でのグループ序列と、
そのグループの中に存在する擬似的な友情関係に冷めた目を注ぐ作品というものは、
昭和40年代以降に生まれた若手作家達の中でよく見られる。

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上で指摘した話はある意味真実なのだろう。
実際に僕の学校もそうであったと理解している。
確かに最初の一週間をかなりエゴイスティックに動いていた。

人との付き合いにも「お試し期間」があればいいと思う。
「クーリングオフ制度」があれば、happyなんじゃないかと思う。

人が人を知るのには時間がかかる。
だったら、その時間の大切さをみんなが共有し、
その時間が長く設定されれば(そうまさにモラトリアム)、
誰もが素敵な"スクールライフ"を"エンジョイ"できるんじゃないだろうか。

もちろん、お試し期間で得た違和感は相対的なものだと理解すべきだ。
「私はそう思う」。ただ、それだけでいい。
あるのは合う・合わないだけで、絶対的な他者否定ではない。


そう。そんな世界。


でも、そんな世界は現れない。現実世界は厳しいのだ。

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結局、これは相互互助システムなんだと思う。
弱者が弱者を助け合う為のシステム。
前回ユダヤの互助システムを書いたが、実ははこれを書きたいが為に書いた。

学校や会社などと個人の関係は基本的に一対一だ。
授業を学ぶ為に個人は学校へ通う。
お金を得る為に、肉体や頭脳を会社に提供し、報酬を得る。
基本的に組織というものは、
何かしらの行動理念に賛同した者達が集まる事によってできあがる。
だから、個人と組織の関係は理念とそれに賛同する者との間の、
純粋で単純な一対一の契約なのだ。
もちろん、そこには組織を具現化する代表者たるものが存在するが、
それは副次的なものにすぎない。

しかし、学校にしろ会社にしろ、
管理者とメンバーとの間の直接的な関係だけで成り立つわけではない。
個人の力は弱いから、横の繋がりを持つことで相互互助しなければならないのだ。
つまり、人はグループを作るのだ。
そして、そのグループ間に目には見えない序列を作るのだ。

なんだかなぁ、と考えてしまうのだが、
きっと抜け出す事のできない社会システムなのであろう。
# by tomomo_tomopan | 2007-11-25 19:17

Answer Diary

先日「純愛」とは何か、と聞かれた。
正直に言うと、すぐに答えがでなかった。

例えば「世界の中心で愛を叫ぶ」や「そのとき、かれによろしく」などの様に、
「愛」と「死」が一つの答えかもしれない。
「自分の痛みよりも、他人の痛みの方が辛いこと」、
「自分を犠牲にしてでも相手に幸せになってもらうこと」。
これらは確かに純愛を記述する為の必要な道具立てなのかもしれないと思う。

でも、僕はなんだかこれらの定義にしっくりこないのだ。

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柳浩太郎という役者がいる。
彼は「テニスの王子様」という漫画のミュージカル版の主役を演じていた役者なのだが、
そのミュージカルの公演中に交通事故にあい、意識不明の重体に陥る。
幸い命は取り留めたのだが、
右半身麻痺、記憶障害、高次脳機能障害、声帯損傷等の後遺症が残ってしまった。
その後、彼はリハビリに励み、障害を抱えながらも現在も俳優として活躍している。
そんな彼がインタビューでこんな風に答えていた。

「何度も死にたいと思った。
 でもそんなある時、あるファンの方が「がんばって」ではなく、「待っている」と言ってくれた。
 その時、僕は生きていたいと思える様になった」

若いのに重い言葉を吐くなと思った。
「死」というものと向い合ったからこそ言える言葉なのかもしれない。

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実はこの間、「僕の日記がとても好きだ」という言葉をさる人からいただいた。
正直、とてもうれしかった。
こんなにうれしいと思ったのは何年ぶりだろうかという気持ちだった。

僕はこの日記を誰かの為に書こうとは思っていない。
だから、読まなくても構わないし、コメントがつかない事もあまり気にしていない。

もちろん、こだわりはとてもある。
文を基本的に4段構成にし、必ず「展開」部分をいれ、独自の味付けをしている事。
全体の文字数を制限したり、一行の文字数をきちんと計算して言葉を選んでいる事。
また、机上の空論にならない様に他人の言葉を引用し、
そこから自分の経験を引き出しながら、自分で思考する様にしている事。
だから、僕は自分の日記に絶対の自信と責任を持っている。
あえていえば、自己満足だ。
でも、誰に評価されなくても、自分に対して妥協だけはしたくないのだ。

なんて事を思える様になったのは、ネット上で日記を書き始めてから1・2年たってからだ。
それまでは、やっぱりコメントがつくのがうれしくてたまらなかったし、
コメントが貰えるようなかなり大衆迎合的な日記を書いていた。
また、誰かとつながっていたいと心の底から望んでいた。
マイミクになれば、その人のすべての日記にコメントをし、
相手にもそれをどこかで求めていたのだと思う。


でも、いつの日かそれがむなしくなった。
そして、とても疲れてしまった。


僕は誰かのコメントの為に日記を書いているわけではない。
僕は僕の思っている事を書きたいだけなんだ。
誰かに認められる為に自分を曲げるなら、それは自己の死だ。
他人なんて関係ないだろう。
単純だけど、そう達観できるまでにかなりの時間がかかった。

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彼女の「僕の日記がすきだ」という発言を聞いて、
変な話だけれど、この人の為に一生日記を書き続けてもいいと思えた。
誰にも読まなくなっても結構。この人が後に僕の日記を読まなくなっても構わない。
でも、僕はきっとこの言葉をよりどころにして日記を書き続ける気がする。

なんていうか、「おまけ」みたいなものなのだ。

それは決して、自分の行為・存在が認められた喜びなどではない。
そんなものがなくても、僕は存在できる。


それは自分が誰かの為に存在できた喜びなのだ。


僕はどうしても「愛」と「死」を純愛と呼ぶのには抵抗がある。
なんだかそこには「殉死の美学」の臭いが漂っていて、
単純に誰かを愛しているのではなく、
自分の行為に酔っているだけで、自己満足している様に思えるからなのだ。

また、自分がいなくなっても相手がいればいい、というのも間違っていると思う。
自分の存在を愛せない人がなぜ相手の存在を愛せるというのだ。
自分の死期が迫っているならいざ知らず、
そうではないなら、互いが互いの為に生きる方がよほど美しいと思うのだ。


純愛というのはもしかしたら「自分」が確立してはじめて成立するのではないかと思う。
自分の存在を絶対的に肯定した上で、自分が強くなった上で、
やっと本当に人を愛せるのではないだろうか。

人は一人でも生きていける。でも、一人では生きない。

この強さと責任が重要なんじゃないかと思う。
# by tomomo_tomopan | 2007-11-24 14:13

ヤンキー三原則

「楽しければいいじゃん」という言説がある。

今の若い人たちがどの程度までこの言葉を使うのかはわからないけれど、
僕が中学・高校・大学の時は、くさるほどこの言葉を聞いたものだ。

気持ちはよくわかる。

真面目な顔をして真剣に何かを考え、将来の為に何かを我慢してするよりは、
今目の前にある事を楽しもうという姿勢は非常に理解できる。
そもそも、どんな事でも楽しむ事ができなければ、続ける事はできない。
「失われた10年」と呼ばれる時代だった。
一流大学から一流企業というコース設計は昔の様に確かなものではなかったし、
企業では、真面目に働いていたサラリーマンが簡単に首を切られていた。
将来は絶望的だった。
誰も政治には興味もなかったし、期待もしていなかった。
不正が起きても「そんなものだろう」「よくあることだろう」と受け入れていた。
真面目にがんばっても、努力しても、きちんと報われない社会。
そんな背景があったので、
「楽しければいいじゃん」という言葉が合い言葉の様に広まったのだろう。

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社会学者のトリアンディスは個人主義者に対して、次の様に表現している。

「個人主義者は愉快なこと、面白い事を強調する。楽しさは彼らにとって重要な価値である」
「『やらなければ』という義務感よりも『面白いから』という理由で行動することがおおい」

一方で集団主義者に対しては、次の様な特徴を挙げている。

「私的行動と公的行動の違いにとても注意を払う」
「義務を果たすことに充実感を覚えることがおおい」


なるほど。確かにそうだ。

集団主義とは、その言葉の通り、集団に対する帰属意識が強い人、
または集団の団結をなによりも重視する思想である。
個人主義とは、個人の人権や個人の自由を主張し、
国家的・集団的権威を嫌い、欲求に対して忠実である事を良しとする価値観でもある。

ポイントは個人主義者が「楽しさ」を最も大事な価値観にするという点である。

これは社会学的に言うと、簡単に他の事実からの帰結として導く事ができる。
なぜなら、個人主義とはそもそも集団が持つ力を期待せずに、
自らの力で個人同士の関係を結びつけようとする価値観である。
従って、個人同士の関係は非常に合理的で、契約的である。
お互いの利益が一致しているから、手を結ぶのであって、それ以上でもそれ以下でもない。
だから、個人の関係は基本的に短期的なものである(更新性と言い換えても良い)。
それゆえに、お互いの共有体験、共通認識・共通信条がきわめて少ない。
その結果、個人主義者同士の会話とは
誰でも感じる「楽しさ」という刹那的で普遍的な思いを共有する事で成り立っているのだ。

逆に言えば、集団主義者は基本的に中長期的な関係を前提としている。
恩恵を期待する前に関係を作り上げ、"よしみ"や"なじみ"で利害関係が構築されるのだ。
"情"と言い換えても良い。
つまり、集団主義というのは、弱い個人を守る為に作り上げた相互扶助システムなのであり、
だからこそ、集団に属するメンバーは集団の利益に対する義務を負うし、
集団の均質性を保つ為に、公的な立場と私的な立場を厳密に区別する必要があるのだ。
(似たような話はこの日記をお読みください)


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伊坂幸太郎は「陽気なギャングは地球をまわす」で次の様に言っている。

「不良というのは本来はさ、秩序から外れたくてなるものなのに、
 結局別の秩序に組み込まれるんだ。
 妙だよね。(中略)上下関係を気にする不良なんて!!」

日本の経済発展は、「成長」という名の一律の価値観を養っていた。
ところが、その価値観からドロップアウトする人間がたくさんでてきた。
それが、70年代から80年代に起きた学校荒廃だった。
また日本は「失われた10年」を通じて、日本全体の集団主義が信頼おけなくなってしまった。
集団主義は、そのシステム全体が生み出す利潤や個人保護を失えば簡単に崩壊する。

では、日本的・学校的集団主義から抜け出した彼等は個人の力で生きられるのだろうか?

いや、個人の力は非常にもろいものだ。
だから、周辺に追いやられた人たちは、そこで新たな価値を持つ集団を作る。

ここに個人主義の意識を保持したまま、集団主義が形成される事になる。
要するに不良というのは、集団主義的な学校的価値観から追いやられ、
個人主義的思想を掲げたマイノリティ集団なのだ。

集団主義であれば、当然秩序が生まれる事になる。
そう、それが「仲間第一主義」と「上限関係」なのだ。
これに「楽しければいいじゃん」を加えると、不良グループ三原則ができあがる。

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不良というのはもちろん極端な例ではあるのだけど、
要するに、個人主義の進展と日本的集団主義の崩壊が、
「楽しければいいじゃん」という価値観を生み出した事になる。

なんだ。
自由だの、自分らしさだの言うけれど、
結局、「楽しければいいじゃん」という思想は、社会の奴隷になった人たちの言葉なのね。
「神様のサイコロ」か「神様のレシピ」の通りだったわけだ。

とはいえ、結局人は社会の構造に組み込まれるものだし、
そこから逃げ出す事は基本的には「死」を意味する。

僕の身体は社会に拘束されている。
でも、精神だけは拘束されずにはいたいかな。

「無知の知」ならぬ、「被支配の支配」。
自分が常に構造的に支配されている事を認識する事で、少しだけましになりたいと思う。
# by tomomo_tomopan | 2007-11-09 07:03

めんどくさい人、楽な人。

最近の僕のくちぐせは「うわー、メンドくせー」だ。

しかし、この「メンドくせー」は何かが面倒くさい時に使っているわけではない。
対象は「人」である。(これは面倒くさいの新用法である)
やたらと同意を求めてくる人(通称プッシュトーク:命名ももた)、
話がとにかくネガティブな人(通称ネガティバー:命名ももた)、
こちらから話さない限り全然話しかけてこない人(通称マナーモード:命名ももた)などなど。
コミュニケーションを取るのにこちらが相当な体力を使う人を一般的に指す。

友達が話す誰かの事を聞きながら「うわ!!メンドくさ!!」と僕はよく叫んでいる。

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話は変わるが、次の様な状況の時にどんな風に受け答えをするだろうか?
その状況とは、自分と自分の上司、仲のいい異性の同期の3人でいる時に、

「君たち仲いいよね~。付き合っているんじゃない?付き合っちゃえば?」

と言われた場合である。
同期とは仲はいいが、恋愛的感情はなく、互いに彼女・彼氏がいるという条件である。

多分、僕ならこの様に答えるだろう。

「ヒロ(仮名)、どうする?俺らつきあっちゃえばだって?どうしよっか?つきあっちゃおっか?」

「え。いやー。」

「あ、やっぱ俺じゃだめか。成田(仮名)さん、僕ふられちゃいましたよ~泣き顔」

などなど。
恐らくこんな一人芝居をして、"自虐ネタ"で終わらせる様な気がする。


実は、この質問は僕の女友達から受けたものだ。
そういう状況なら、あなたはどの様に受け答えをするのか、と。

彼女は実際にこの様な状況に立ち会ったらしい。
彼女はその様な返しがあまりうまいタイプではないので、
真面目に「ありえない」と無下に返すか、キョドってしまうかのどちらかであるらしい。

ところが、一緒にいた彼はイケメンな上に頭も良い、恋愛レベルがボスキャラ級の男である。
彼はうまく上司の言葉を切り返し、彼女になんの負担もかける事なく、
誰を非難することもなく、その場を和やかな空気に変えたのだという。
彼女は、そんな彼をみながら、まるで魔法を見ているかの様だったと話した。

僕の失敗は、上司のフリに対して、同期の彼女を巻き込む発言をした事である。
確かに、自分を貶めているから、誰も傷つけていない様に丸く収めている気もするが、
しかし、その同期の彼女のイメージを高慢な女に変えさせた感は確かにある。
また、もし、だが、もし、同期の彼女が僕を好きだったとしたら、
それは同期の彼女に重厚な一撃を見舞うことになっていたのだろう。


まだまだだな。と僕は思う。

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その僕女友達はその同期の彼を「楽な人」と呼んでいた。
彼の様な人を「楽な人」と呼ぶ、彼女のセンスはやっぱり素晴らしい。

もし、「めんどくさい人」をコミュニケーションる時にこちらが相当な体力を使う人とするなら、
その逆の「楽な人」はコミュニケーション時に、あまり体力を使わない人を指すのだろう。

なるほどね。あー、僕も「楽な人」になりたいな。

そう、僕の女友達に話したら、「あなたは"ウェットな人"だから、きっと無理よ」と言われた。
あー、僕の目指すクールメンにはまだまだほど遠いようだ・・・。
# by tomomo_tomopan | 2007-11-08 07:10


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